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東京高等裁判所 昭和31年(ネ)625号 判決

第一審原告(第六二五号事件控訴人、第六二五事件被控訴人) 藪田卓二 外一名

第一審被告(第六二五号事件被控訴人、第六二五事件控訴人) 国

訴訟代理人 朝山崇 外一名

主文

第一審原告等の控訴はいずれもこれを棄却する。

原判決中第一審被告敗訴の部分はこれを取消す。

第一審原告等の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも第一審原告等の負担とする。

事実

第一審原告等訴訟代理人は、「第一審被告の控訴を棄却する。原判決中第一審原告等敗訴の部分を取消す。第一審被告は、第一審原告藪田に対しさらに金三十四万千六百六十七円及これに対する昭和二十九年十二月十一日から右完済に至るまでの年五分の割合による金員を、第一審原告武田に対しさらに金八万四千八百九十二円及これに対すを昭和二十七年七月三十日から右完済に至るまでの年五分の割合による金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも第一審被告の負担とする。」との判決及仮執行の宣言を求め、第一審被告指定代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並に証拠の提出、援用認否は以下に附加するものを除く外、原判決事実摘示の通りであるからここにこれを引用する。

(事実関係)

第一審原告等訴訟代理人は

一、 昭和二十年九月七日当時の外務大臣が在外公館に宛てて「在留邦人引揚経費に関する件」なる訓電を発するについては、予め大蔵大臣から資金借入についての委任を受けていたものであつて、外務大臣はこの委任に基き、右訓電によつて漢口総領事中野勝次及特命全権公使田代重徳を含む在支公館長に対し在留日本人の引揚救済費等に当てる為の資金借入の権限を与えたものである。

二、 仮に中野総領事及田代公使が国の為に本件借入金を借入れる権限を有しなかつたとしても、同人等は少くとも政府から配布を受けた渡切費予算の限度においては国の為に第三者と契約をする権限を有していたものであつて、本件借入の行為は右の権限を越えて為されたものであるところ、第一審原告等は夫々中野総領事又は田代公使に本件の借入をする権限があるものと信じ、且かく信ずるに付て正当の事由があつたものである。即ち日本敗戦後の中国各地において生命身体の危険に曝され、生活に困窮した在留日本人の為にその安全を図り、引揚までの生活を保障し、無事引揚を実施することは国の義務であつたのであるが、当時中国と日本内地との連給は断たれ、国が自ら直接にこの義務を履行することは不可能であつた。このような状況の下において前記外務大臣訓電の趣旨を告げられて資金の提供方を求められた第一審原告等が夫々中野総領事及田代公使に本件借入金借入の権限があると信じたについては正当の事由があり、従つて第一審被告国は民法第百十条の規定により本件借入金についてこれが返済の義務を負うに至つたものである。

三、 在外公館等借入金の返済の実施に関する法律(昭和二十七年法律第四十四号)第四条及別表の定は夫々昭和二十九年五月十五日公布施行にかかる金融機関再建整備法の一部を改正する法律、閉鎖機関令の一部を改正する法律及旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の整理に関する法律の各別表に定める換算率との比較においてもその合理性を欠き極めて不当であることが明かであつて、この点からも上記実施法の定は憲法十四条第一項及第二十九条の規定に抵触するものである。

四、 第一審被告は第一審原告籔田に対しては本件借入金に対しては本件借入金に付金五十万円の義務があるところ、右借入金に付前記在外公館等借入金の返済の実施に関する法律による返済金として昭和二十九年十二月九日金九万円を供託し、また第一審原告武田に対しては本件借入金に付金十五万円の支払義務があるところ、同じく右法律による返済金として昭和二十七年七月二十八日金三万三千六百八円を支払つたに止まり、残額の支払をしない。而して本件借入金債務の弁済期は遅くとも右供託又は支払の日までには到来していたものと解すべきであるがら、第一審原告藪田は残元金四十五万円及,これに対する右弁済期の後である昭和二十九年十二月十一日から右完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の、また第一審原告武田は残元金十一万七千三百九十二円及これに対する右弁済期の後である昭和二十七年七月三〇日から右完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の支払を求め得べきものである。しかるに、原判決は、第一審原告藪田に対しては金十万八千三百三十三円とこれに対する遅延損害金の請求を、第一審原告武田に対しては金三万二干五百円とこれに対する遅延損害金の請求を容れたが、その余の請求を棄却したので、ここに第一審原皆薮田に対しさらに金三十四万千六百六十七円及これに対する昭和二十九年十二月一日から右完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の、第一審原告武田に対しさらに金八万四千八百九十二円及これに対する昭和二十七年七月三十日から右完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるものである。

と陳述し、第一審被告措定代理人は

一、 第一審原告等の右主張のうち中野総領事及田代公使が渡切費の支給を受け得る地位にあつたこと、第一審被告が第一審原告等に対し夫々その主張の日にその通りの供託又は支払をしたこと並に本件借入金に関する国の債務の履行期が第一審原告等主張の日までに到来していたことはこれを認めるが、その余はすべてこれを否認する。

二、 旧憲法第六十二条第三項の規定に照し、本件借入金の借入によつて国の消費貸借上の債務が確定的に発生したものと解することができないばかりでなく、当時の官制会計法規上外務大臣には資金借入の権限はなく、従つて外務大臣が在外公館に対し資金借入について権限を与えることは固より不可能であつて、第一審原告等主張の外務大臣訓電に資金借入の授権が含まれると解することはできない。

三、 本件借入金は他の中国各地、満州、朝鮮等の地域における借入金と同様いずれも在留日本人の引揚救済の為の緊急必要の費用に当てることを自的として借入れられたものであて、借入名義人の如何や、その際作成された借用証等の文書の形式内容の如何に拘らず借入金の返済期、現地通貨と邦貨との交換率、返済額等一切の返済条件を後日における政府の決定に一任するとの趣旨で授受されたものである。従つて在留日本人の引揚救済の為の資金の調達を必要とした現地の急迫した情勢の下において第一審原告等が夫々借入名義人である中野総領事や田代公使に国の為に資金の借入をする代理権限があり、同人等に対する資金の提供によつて国に対する消費貸借上の債権が確定的に成立すると信じたが故に本件借入金の提供をしたものと解するが如きは全く実情に副わないものであつて、第一審原告等の民法第百十条の規定に基く主張はその理由がない。

四、 本件借入金は在外公館等借入金整理準備審査会法(昭和二十四年法律第百七十三号)第一条に謂う在外公館等借入金に該当するものであつて、同法に定める確認の手続を経由することによつてはじめて右借入金に関する国の債務が成立するのである。而してこの債務の履行に関しては在外公館等借入金の返済の実施に関する法律があり、第一審被告はこの法律の定めるところに従つて第一審原告等に対し夫々弁済供託又は弁済をしたのであるから第一審原告等の請求はいづれも理由がない。また右法律の第四条及別表の定が憲法第二十九条の規定に違反するとの第一審原告等の主張もそれ自体理由がないばかりでなく、本件借入金の授受によつて国の確定債務が発生したことを前提とするものであつて、その前提要件を欠くものである。

と陳述した。

(証拠関係)〈省略〉

理由

昭和二十年十一月十八日、当時漢口市駐在総領事であつた中野勝次が同市において第一審原告藪田から中国中央儲備銀行券二億円を漢口頭事館員の生活費、在留邦人の引揚救済費等に当てる為借入れたこと、同月十九日、当時特命全権公使として広東市に駐在していた田代重徳が同市において第一審原告武田から中国法幣三十万元を同じく広東領事館員の生活費、在留邦人の引揚救済費等に当てる為借入れたこと及これより先同年九月七日外務大臣名を以て在外公館に宛てて「在留邦入引揚経費に関する件」と題する第一審原告等主張の趣旨の訓電が発せられ、第一審原告等からの上記借入金の借入が右訓電に基いてなされたものであることは当事者間に争のないところである。

第一審原告等は外務大臣が右訓電を発するに当つては予め大蔵大臣から資金借入に付ての委任を受けており、この委任に基き前記中野総領事及田代公使を含む在支公館長に対し資金借入に付ての権限を授与したものである旨主張するけれども、当時の官制及会計法規上資金借入の権限は大蔵大臣に専属し(旧会計法(大正十年法律第四十二号)第六条参照)、大蔵大臣が政府資金調達の為外務大臣に対し民間からの資金借入を委任するというが如きは有り得べからざることであると謂わなければならない。〈証拠省略〉に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、わが国のポツダム宣言受諾と無条件降伏により中国各地における在留邦人間には多大の動揺と混乱が生じていたことが予想され、これら在留邦人を速かに帰国させることが急務であり、且外地との通信連絡が何時途絶するやも予測し難い状況下にあつた為当時の外務省事務当局においては外地、在留邦人の保護の万全を期する為在外公館をして従前の慣例に捉われることなくその裁量によつてあらゆる可能な臨機の措置を取らせる必要があるとして急遽前記外務大臣名の訓電案を起案し次官限りの決裁を経ると共に、大蔵省に対する関係では単なる口頭連絡によつてその事務当局の事実上の諒解を得ただけで冒頭認定の通り昭和二十年九月七日附を以て前記外務大臣名の訓電が発せられるに至つたものであつて、もとより右訓電を発するについて閣議の決定や諒解を経る等の遑もなく、また第一審原告等主張のように予め大蔵大臣が外務大臣に対し在留邦人からの資金借入について委任をしたというような事実もなく、右訓電は当時の急迫した事態の下における止むを得ざる措置として外務大臣の責任において発せられたものであることを窺うことができるに過ぎず、他に第一審原告等が主張するような大蔵大臣の外務大臣に対する委任の事実を肯定するに足りる証拠はない。従つて右委任の事実を前提として中野総領事及田代公使による第一審原告等からの本件借入行為によつて国の消費貸借上の債務が発生したとする第一審原告等の主張はこれを採用することができない。而してこの理は本件借入が在外領事館員の生活費、在留邦人の引揚救済費等に当てる為緊急止むを得ざる措置として行われたという当時の特殊事情を考慮しても異るところはない。

然るところ第一審原告等は、前記中野総領事及田代公使はその配布を受けた渡切費予算の限度においては国の為に第三者と契約をする権限を有していたものであつて、同人等のした第一審原告等からの本件借入は右の権限を越えて為されたものであるところ、第一審原告等は中野総領事又は田代公使に本件借入金の借入をする権限があるものと信じ、且かく信ずるに付て正当の事由があつたとして民法第百十条の規定による国の消費貸借上の債務の発生を主張する。而して右中野総領事及田代公使がいわゆる渡切費の支給を受け得べき地位にあつたことは第一審被告の認めるところであろうから、中野総領事等はその示達を受けた渡切費予算を執行するという限度において渡切費の目的に従い国の名において第三者との間に契約を締結する権限を有していたものと謂わなければならない。〈証拠省略〉に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、終戦後漢口市及広東市においては在留邦人はすべて一定地域に集結すべきことを命ぜられ、集結地における応急宿舎の設営、そのうちの困窮者に対する食糧や衣服の調達、戦争犯罪の嫌疑によつて拘禁中の人々に対する食糧や医薬品の差入等の為に少からざる経費を必要とした外、殊に両市における多数による領事館員、領事館関係者及その家族等の中には内地からの送金の杜絶によつて生活に困窮し生活費の支給を必要とする者が少くない状況にあつた為、中野総領事及田代公使はこれらの経費に当てる為夫々自ら或は部下職員を通じて第一審原告等及その他の在留邦人中の有力者に対し前記外務大臣訓電を示して後日日本政府により妥当な返済措置が講ぜらるべきことを告げて右経費に当てる資金の提供方を要請し、これに対し第一審原告等はいずれも中野総領事及田代公使に国を代理して資金借入の権限あるものとして後日日本政府から何等かの返済処置が為さるべぎことを期待して本件各借入金を提供するに至つたものであることが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はなく、右認定の事実によれば、第一審原告等は当時中野総領事及田代公使が国を代理して本件各借入を為すべき権限を有していたと信ずるにつき正当の事由を有していたかのごとくにみえる。

しかしながら、さらに考えてみるに、第一審原告等に示された前記訓電〈証拠省略〉には「在留民処置ニ付テハ・・・之ニ要スル経費相当多額ニ上ルモノト察セラレ之カ一部ハ勿論出来得ル限り各現地ノ事情ニ応ジ民団、民会、日本人会等ヲシテ引受ケシムベキモノト思考スルモ結局ハ大部分国庫ニ於テ負担スル外ナキニ至ルベシ然処之ニ対スル予算ノ計上困難ナルナラス送金亦不能ノ情況ナラヲ以テ差シ当リ各現地に於テ便宜凡有ル方法ニ依リ支弁シ置カシ度ク後日之ヲ整理スルコトト致スヘキニ付其ノ使途、金額、明細出来得ル限リノ証憑書類等ヲ整備シ保存シ置カレ度シ」とあり、直接総領事若しくは公使等に国を代理して資金借入の権限あることを明示したような文言は見当らないのみならず、右の文言からするならば、右の訓電は在留民処置のための前記のような経費は寧ろ本来在留民各個人が自ら負担すべきが当然であるし、敗戦に伴う当時の異常な事態下における諸経費、すなわち在留民集結地における宿舎の設営費及困窮者の救済等もなるべく在留邦人の団体である民団、民会、日本人会等に引受けさせるのが本則であろうけれども、その負担能力にも限度があり、結局は国がその政治上の責任においてこれを支弁しなければならないこととなろうが、これを直ちに国の施策として実施することはできないから事後の処理は後日これを行うこととして一応各現地の在外公館をして臨機の措置を取つてこれを支弁しておくべきことを指示したに過ぎないものと認められるのであつて、右の指示によつて調達した資金が直ちにそのまま国の債務となることを容認している趣旨のものであるとはたやすく解せられないのである。しかも、通常国が個人から金員の借入を行うなどということは考えられず、国庫のため必要があるときは国は日本銀行から借入を行うというのが当時の会計法規の建前であり、健全な常識でもある。第一審原告等が表見代理の基本代理権として主張する在外公館の長たる官吏に与えられた渡切費に関する財政上の権限は、既定の渡切費予算を執行する、すなわち支出負担行為を為すかぎりにおいて国を代理する権限であつたに過ぎず、金員を借入れるという積極的な債務負担行為を為す代理権限はこれとは全く異質なものであつて、かくのごとき金員借入の権限が在外公館の長にあるものと信ずることは日常の現実及法常識上著しい飛躍があるものといわなければならない。さらに、前認定のような敗戦に伴う異常な事態の下にあつては第一審原告等においても、国との間に通常の消費貸借契約を締結したものであると信じていたものとはにわかに認め難く、第一審原告藪田に対する本件借用証である〈証拠省略〉には、無利息で、返済期、返済方法及日本円との換算率は政府に一任するとあり、第一審原告武田に対する借用証である〈証拠省略〉には、内地帰還後公定相場により返済する旨が記載されているが、前記訓電とあわせ考えれば、本件借入金の使途がいずれも前記のような経費に当てられるものであることに鑑み、政府がその政治的責任において後日第一審原告等に対しその返済措置を取るものと期待し、返済の条件等はすべて政府に一任する趣旨であつたと認めることができるのである。これを要するに、前記訓電の電文の仔細な検討及法常識上の合理的な判断からすれば、第一審原告等が中野総領事及田代公使に国を代理して本件各借入を為す権限があるものと信じたとしても、そのことには過失の責あるを免れず、かく信ずるにつき正当の事由を欠くものといわざるを得ない。

また、国が前言を翻し信義に反した節も認められないから、民法第一条に謂う信義誠実の原則あるいはいわゆる禁反言の原則を根拠とする第一審原告等の主張もこれを採用すべき余地はない。

以上説明した通り中野総領事及田代公使による本件借入金り借入によつて直ちに国の消費借上の債務が発生したとする第一審原告等の主張はすべて理由がない。してみれば本件借入金についてこれを返済すべき国の債務の発生を見る為にはその為の特別の予算及立法措慣を必要とするのであつて、かかる措置が取られる以前においては第一審被告国には本件借入金に付てこれが返済を為すべき法律上の義務はないものと謂わなければならない。固より本件借入金の借入が先に認定したような経過の下に行われたものであり、また第一審原告等が夫々多年漢口市又は広東市に居住して事業に精励し、本件借入に当つて授受された金員も第一審原告等が現地において刻苦した右事業活動の成果の一部であるばかりでなく、右金員が当時第一審原告等にとつても帰国が実現するまでの間における自身及家族の生活の維持並に帰国後の生活再建の為にも貴重であつた手持資金の中から在留同胞救済の資に当てるべく割愛提供されたものであることは原審及当審における第一審原告等各本人訊問の結果によつてもこれを窺うに難くない。従つて本件借入金の提供によつて第一審原告等が支払つた犠牲は何等かの方法によつて酬いられるのが相当であるとしても、上述した特別の措置が取られる以前においては本件借入金に関しては国は何等法律上の義務を負うものではなく、唯その政治上の責任が問題となるに止まるものと謂うべきである。かかる結論は一見第一審原告等にとつて苛酷なように思われないではない。元来国は国民の生命、身体及財産を保護し、その生活の安全を保障する責任があり、国家存立の目的も窮極においてはここに在るとも謂うことができる。然しながらこれはあくまでも国の政治上の責任の問題であつて、国民は当然に国に対して救済を請求し得る法律上の権利を有するものではない。このことは終戦時における外地在留の日本国民についても同様であつて、自己の生命、身体及財産の安全を護つて帰国に至るまでの自己の生活を維持し、早期引揚の実現に努力をすることは各自自らが処理すべき自己の事務であつて、自らの生活維持の為に必要な費用を自己資金を以て賄つたからといつて国に対してその費用の償還を請求し得る筋合のものではなく、またある者が自己の生活維持の為に必要な費用を他の者からの借入金を以て賄つたからといつて国に対し自己に代つて右の借入金の返済を為すべきことを請求し得る筋合のものでもない。ただ外地における終戦時の困難危急の状況下において在外邦人全部に各人に自給自足の生活を期待し、また在外邦人相互間の協力扶助のみを頼みとすることは固より至難のことであるから、国の救済に待つととろが多かるべきことは当然であるとしても、この場合に国が何等かの救済措置を講ずることとすべきものかどうか、また何等かの措置を講ずべきものとしてもその内容を如何なるものとすべきかは国の財政上の負担能力の限度、日本占領軍当局との関係その他各般の事情を綜合して政策的に決定さるべき正しく国の政治的責任の問題である、終戦時における外地在住邦人の救済資金に当てることを目的として借入れられ、且右目的に使用された本件借入金についてもその理は右と異るところはない。国においてこれが返済を為すべきものとするか否か、返済を為すべきものとしてもその返済の時期、返済をすべき債務の内容、返済の方法等を如何にすべきかは、本件借入が行われた際の借入当事者の合意の内容、借入の対象となつた外地通貨の実質価値等当該借入に直接関係のある事項ばかりでなく、当時の中国各地、満洲、朝鮮等においても行われた本件借入とその趣旨を同じくする多数に上る借入の実情、外地からの多数に上る引揚帰国者相互聞及これらの引揚帰国者と内地居住者相互間の負担の均衡、外地居住者が引揚の際現地に遺留し、後に平和条約によつてこれが放棄を余儀なくされた在外財産の補償の問題、戦後国内において急速に進行したインフレーションの抑制措置の必要、国の財政上の負担能力の限度その他諸般の事情を綜合考慮して政策的に決定せらるべき事実であつて、予算及立法上の措竃を講ずることによつて右の決定が行われるまでは国には本件借入金に付てこれが返済を為すべき法律上の義務はなく、国は上述したような諸般の事情を綜合考慮して右の決定をすべき政治上の責任を負うに止るのである。

ところで、昭和二十四年法律第百七十三号を以て在外公館等借入金整理準備審査会法が制定され、同年十二月二十日から施行されたことは公知の事実であつて、本件借入金が右法律第一条に謂う借入金に該当することは同条の規定上明かであるから、右法律第六条の定める借入金確認証書の発給が為されることによつて本件借入金についても始めて法律の定めるところに従い、且予算の範囲内において将来返済すべき国の債務が発生するものと謂わなければならない。而して第一審原告からの借入金については昭和二十六年三月十日、また第一審原告武田からの借入金については昭和二十五年十二月十六日夫々前記の借入金確認証書の発給を見たことは当事者間に争のないところである。さらにかくして発生した国の債務の内容の決定及履行の方法について別に昭和二十七年法律第四十四号を以て在外公館等借入金の返済の実施に関する法律が制定され、同年三月三十一日公布と同時に施行されたことも公知の事実であつて、国がこの法律の定めるところに従い返済を実施することによつて前記在外公館等借入金整理準備審査会法第一条に謂う借入金に関する国の債務はすべて消滅するのである。而して第一審被告国が右在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条の定めるところに従つて第一審原告藪田からの借入金については金五万円を同人に弁済の為現実に提供したがその受領を拒絶されたので昭和二十九年十二月九日右金員を弁済の為供託し、また第一審原告武田からの借入金については金三万二千六百八円を昭和二十七年七月二十八日同人に支払つたことはいづれも当事者間に争のないところであるから、これによつて本件借入金に関して第一審被告国が第一審原告等に対し負担した債務はすべて消滅するに至つたものと謂わなければならない。

第一審原告等は憲法第十二条乃至第十四条及第二十九条の諸規定を引用して上記在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条の規定及同法別表の定がこれらの憲法の規定の趣旨に違反する旨を主張するけれども、この主張は本件借入金の借入によつてその内容の確定した国の債務が法律上当然に発生していることを前提とするものであるところ、本件借入金の借入によつてはこれを返済すべき国の債務は未だ発生せず、またその債務の内容も確定するに至つていないものであることは上に縷述したところであるから、第一審原告等の上記主張はその前提要件を欠くものとして失当たるを免れない。また国が本件借入金については何等かの決定を為すべき政治的責任を負うに止ることも上に述べた通りであるから、第一審原告等の上記憲法違反の主張はその実質においては結局国が本件借入金については前記在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条の規定及同法別表の定に従つて算定した金額を支払えば足りるとした措置が国の右政治的責任を果すものとして当を得ないものであること、即ち右法律第四条の規定及同法別表の定がその内容において不当であることの主張に外ならないのである。ところである法律の規定が憲法のいづれかの規定に違反しないかどうかは正しく憲法の規定の解釈の問題として裁判所が判断すべき事項であるが、ある法律の規定の内容が妥当であるかどうかは立法政策上の問題としてその決定は国会の専権に属し裁判所が審判の対象として取上げるべき事項ではない。第一審原告等の上記主張はこの点からするも到底採用の余地がないものである。

しかのみならず右の在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条の規定及同法別表の定は第一審原告等が主張するように必ずしもその内容を不当であるとすることもできない。即ち

(一)  先ず〈証拠省略〉に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、中国中央儲備銀行券のその発行当時における邦貨との公定交換率は儲備銀行券百円に対し邦貨十八円の比率であつたところ、儲備銀行券は戦局の進展と共にその価値が下落し、終線直前の時期においては儲備銀行券によつて中南支から日本内地に送金をするには邦貨表示の金額を右公定交換率によつて換算した儲備銀行券表示の金額の七十倍の調整料を支払うべきことと定められ、結局内地において邦貨一円を受取る為には儲備銀行券三百九十五円四十七銭を為替銀行に払込むことが必要となつたが、終戦と共に儲備銀行券の価値は更に下落の一途をたどり、日本占領地域に進入した国民政府は儲備銀行券の強制通用を廃止して法幣を法定通貨とすると共になお儲備銀行券の流通もこれを承認してその二百円を法幣一元と交換する旨の布告を発したこと、然るに右法幣自体も日を逐うてその価値が下落したのであつて、本件借入が行われた当時儲備銀行券又は法幣と日本円との間に為替相場がないことは勿論、両者の交換率は全く不明の状態であつたこと、このような情況であつた為本件借入金の授受が行われた当時における借入当事者の意思も後日政府によつて為さるべき本件借入金の返済に関しては儲備銀行券又は法幣の邦貨への換算率及返済さるべき金額の点をも含めて一切を後日における政府の決定に一任する趣旨であり、その趣旨のもとに〈証拠省略〉の各借用証が作成されたものであることを窺うことができる。第一審原告等は本件借入金については借入当事者間において借入が行われた当時現地で通用していた交換率(中国中央儲備銀行券四百円又は法幣二元に対し邦貨一円)より低くない率によつて日本円で返済をする旨の合意が成立し、唯その具体的金額の決定のみを政府の合理的裁量に一任する約旨であつた旨主張するけれども、この点に関する〈証拠省略〉の結果は前掲の各証拠に照したやすく措信し難く、他に第一審原告等の右主張を肯定して上記認定を履すに足りる証拠はない。

(二)  次に前記在外公館等借入金の返済の実施に関する法律の制定の経緯を見るに、〈証拠省略〉に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、

(1)  終戦当時中国各地のみならず、朝鮮、満州、関東州、泰、仏印等においても現地在留邦人の生活救済費、引揚費等の経費に当てる為多数の借入が行われ、その中には本件借入金におけると同様現地駐在の在外公館長が借入の当事者になつているものの外、現地邦人自治団体又はその代表者が借入の当事者となつているものもあり、借入の際作成された証書も本件〈証拠省略〉と同様に借用証の形式を取るものの外単なる受領証等の形式を取るものもあり、また借入の行われた時期も終戦後相当期間に亘り、借入の対象となつた現地通貨も地域によつてその種類を異にしたことは固よりであるが、これらの借入金はいずれもその趣旨目的を共通にするものである以上、国がこれら借入金について返済を行うに当つてはこれら多数に上る借入金について可能な限り平等の措置を講ずることが衡平に合するのであつて、借入の行われた時期、借入当時者が政府機関であるかどうか、借入当事者間における特約の有無内容等によつて返済措置に差別を設けることは当を得ないものであること、

(2)  右に述べた多数に上る借入金を表示する現地通貨を本邦通貨に換算するに当り本件における中国中央儲備銀行券及法幣のように現在現地においては既に通用力を失つている通貨については通貨改革の変遷の跡を辿つて現に流通している現地通貨にこれを換算し、さらにこれを返済時における為替相場(為替相場がないときは物価指数を基準とした購買力の比較)によつて本邦通貨に換算することが民法第四百三条の趣旨にも合致する合理的な方法ではあるが、この方法によるときは上記借入金の円への換算額は僅少な額となつて実際問題として甚しく不合理な結果となり、さればといつて借入の行われた時期における現地通貨と本邦通貨との間には固より為替相場はなく、物価指数を基準とする両通貨の購買力の比較によつて借入時における両通貨の価値を比較しようとしても終戦後の混乱時である為現地における的確な資料を得ることができない為、借入金を表示する現地通貨の円への換算に当つては借入の行われた地域を朝鮮、満州及関東州、華北、華中及華南、泰、仏印の六区分に分ち、各借入通貨毎に借入の最盛時における当該現地通貨の流通していた地域の主要都市(本件借入の対象となつている中国中央儲備銀行券及法幣にあつては上海)と東京との米価の比較により、これを現地通貨の評価の基準とすることも次善の措置としてやむを得ないものであること(右の評価基準は昭和二十六年法律第五十四号在外公館等借入金の返済の準備に関する法律第三条の規定によつて設置された在外公館等借入金評価審議会が大蔵大臣の諮問に対し答申したところのものである。なお、第一審原告等は現地及東京における米価の比較によつて換算率を定めるべきものとしても東京における米価については本件借入金の返済を為し得るに至つた昭和二十七年三月三十一日当時における米価によるべき旨主張するけれども、当事者間に別段の合意がない限り外国の通貨で表示された金銭債権を本邦通貨に換算するに当つては同一の時期における両通貨の価値の比較によるべきことは金銭債権の弁済に関する原則であつて、第一審原告等の右主張にはこれを首肯するに足る根拠がない。)、

(3)  終戦後外地からの引揚帰国者が本邦内に持込み得る現金に付ては日本占領軍当局の命令によつて金千円を以て限度とし、これを越える現金の持込が禁止されていたところから、外地からの引揚帰国者相互間の衡平を図る為には上記借入金についてもその返済額に一定の限度を設けるのが相当であること、

(4)  上記借入金についてこれが返済の措置を講ずることは引揚帰国者が外地に遺留したいわゆる在外財産の一部の補償たる実質を有するものであるところ、在外財産の補償に関しては当時未だ全体として何等の方針も決定されておらず、従つて上記借入金について何等の限度をも設けることなくこれが返済の措置を講ずることは引揚帰国者相互間の衡平を害する結果となること、

以上(1) 乃至(4) 掲記の諸事情等が考慮された結果前記在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条の規定及同法別表に定める換算方法が定められるに至つたことを認めることができる。

而して、以上認定の立法の経緯に前記(一)において認定した本件借入金の借入当事者の意思をも合せ考えるときは、右法律第四条の規定及同法別表の定は本件借入金に関してもその合理性を認めることができるのであつて、必ずしもこれを以て不当であるとすることはできない。第一審原告等はなお右法律第四条及同法別表の定める換算方法について昭和二十九年法律第百号閉鎖機関令の一部を改正する法律、同年法律第百六号金融機関再建整備法の一部を改正する法律及同年法律第百七号旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の整理に関する政令の一部を改正する法律の各別表に定める換算率との比較においてこれを不当であると主張する。然しながら第一審原告等主張にかかる金融関係の右三法律の各別表の定める換算率はいずれも閉鎖機関等が負担する、支払送金為替債務及右債務を除く他の在外債務、特に現地通貨表示の預金債務に関するものであるところ、これらの債務はいずれも本件借入金に関する国の債務とはその性質及成立の経過を異にし、必ずしも両者を同一に論ずることはできない。のみならず、右三法律のある上記債務の内未払送金為替債務は本邦内において本邦通貨によつて支払を受ける約定の下に当時の実行換算率に従つて換算した現地通貨を閉鎖機関等の在外店舗に振込むことによつて取組んだ送金為替にかかるものであつて、本件借入金とは全くその性質を異にし、従つて右送金為替債務について定められた前記三法律の各別表の定める換算率が本件借入金の換算率より債権者に有利であるからといつて直ちに本件借入金の換算率を不当であるとすることはできない。むしろ本件借入金は現地通貨表示の貸付金とも謂うべきものであるから(もつとも借入金の借入によつて直ちに国の債務が発生するものでないことはすでに説明した通りである)、その性質上は前記三法律の定める閉鎖機関等の現地通貨表示の預金債務に近似するのであつて、この預金債務に付ては右三法律の各別表は在外公館等借入金の返済の実施に関する法律別表の定める換算率と同一の換算率を採用し、然も同法第四条の規定による金五万円の返済限度額の定は前記三法律においても等しくこれを採用しているのである。してみれば在外公館等借入金の返済の実施に関する法律第四条及同法別表の定める換算方法が前記三法律の各別表の定める換算率との比較においてその権衡を失し不当であるとの第一審原告等の前記主張も採用の余地がない。

以上説明のとおりであるから、第一審原告等の本訴請求はすべて失当として棄却を免れない。よつて、第一審原告等の本件控訴は民事訴訟法第三百八十四条第二項の規定によつていずれもこれを棄却し、また原判決中第一審原告等勝訴の部分は同法第三百八十六条の規定によつてこれを取消すべく、訴訟費用の負担につき同法第八十九条、第九±二条第一項及第九十六条の規定を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 平賀健太 鈴木醇一 石渡吉夫)

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